・ n.2 イタリアにおける、芸術作品の破壊行為 有名な10件

先回同じタイトルの n.1を ご案内致しましたが、今回はn.2を。

勿論ながら、段々事件が大きな、世界中で報道された
有名なものとなって行くので、何十年前の事でも、
朧気にも、そうそう、そうだったっけ!と思い出すのが多く、
きっと皆さんも同様に思い出される事でしょう。

参考にしたサイト記事は、
破壊の芸術: イタリアで最も有名な破壊行為 10 件
L’arte della distruzione: i 10 atti vandalici più celebri d’Italia

では、どうぞ!

・n.5 ドナテッロ作(コピー)「サン・マルコ像」 フィレンツェ、
    オルサンミケーレ教会

1-shutterstock_13464_GF.jpg

フィレンツェの街、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂から
その広場前の道を南に続く目抜きのカルツァイウオーリ通り
辿り、ヴェッキオ宮のあるシニョーリア広場に出る前の右手にある
オルサンミケーレ教会、博物館・Orsanmichele.


この四角な大きな建物は少々変わっており、四方の壁に
各職業組合が奉納した聖人像が壁龕に収まり、
聖母子像などもあり、全部で壁龕の数は14あります。

で建物の南側の壁面、奥の西角にあるのが、このドナテッロ作の
サン・マルコ像なのですが、

2-Orsanmichele_Tabernacolo-dellarte-dei-Rigattieri-_GF.jpg


2004年10月31日 1人の男がこの壁龕に、ええと、おしxxを
するのによじのぼり、サン・マルコ像のマントを掴みつつ、
その一部を剝ぎ取ったのだそうで! 

どうせかなり酔っぱらっていたでしょうし、壁龕のあの高さから
落ちそうになって掴み、剥がれたのかも! まったくもって!!

幸いな事に、この壁龕に納められているのは全てコピー作品で、
本物は上階の博物館にあるそうで、良かった、とはいえ・・!


このお顔の部分の写真は、多分ドナテッロ作の本物と思いますが、
まぁ、下らない事件に関わらずに済み、やれやれでした、ね。

3-donatello-san-marco-t-dettaglio_GF.jpg


この教会はもともと小麦貯蔵庫だったそうで、その為内部構造も少々
変わっておりますが、素晴らしいオルカーニャの大壁龕もあり、
外の壁龕共々、行かれたチャンスにはじっくりのご見学をお勧めです。

オルサンミケーレ教会 ・ フィレンツェ
https://www.italiashiho.site/archives/20171007-1.html



・n.4 アンドレア・マンテーニャ「聖クリストファーの遺体の輸送」
    パドヴァ、エルミターニ教会

1993年7月12日。 錯乱した男がオヴェターリ礼拝堂・Ovetariの柵を
通りぬけ、マンテーニャのフレスコ画の下側に「サンタ・ジュスティーナ・
Santa Giustina」と書き散らし、

その後続けて、隣のボーノ・ダ・フェッラーラの作品の上に再び同じ様に
書こうとして「Santa G...」と書いた所で、何人かの訪問者により
ブロックされたのだそうで。

こちらが、「サン・クリストフォロの物語」の右の壁、つまり先に
落書きをした方で、

4-Ovetari,_storie_di_san_cristoforo_GF.jpg



左の壁「サン・ジャコモ・マッジョーレの物語」の方に、小さな落書きを。

5-Ovetari,_storie_di_san_giacomo_o_GF.jpg


取り押さえられた錯乱男は、取り調べの捜査官に対し
「聖人自身の提案に基づいて行動した」と宣言したそうで!


実はこの右の壁、「聖クリストフォロの物語」の一番下の逸話の壁画が、
マンテーニャ作の大変有名な作品で、背景にも遠近法を用い、

6-Ovetari,_san_cristorforo_05-06,_Martirio_e_trasporto__GF.jpg

聖クリストフォロが大男だった、という処刑された右側中の遺体搬送、
建物2階の左側、目に突き刺さった矢、の迫力ある表現も素晴らしく、

17歳でここの壁画作者の1人に選ばれ、これを描き終える頃には
最初に委託された画家は3人が亡くなり、途中での替わりもあったものの、
最後は彼一人で他の部分も描き終え、このクリストフォロの野心的な
部分を仕上げた、という経過を読み、

作品全体の出来上がりは1457年以降、だったとあり、経費が途切れ
3年ほどの中断もあったようで、約10年程かかっての完成で、
マンテーニャも20代後半に差し掛かる以前。

それにしても、やはり凄い画家だったのだなぁ、と改めて感嘆を。


で、この壁画について、もう1つ記しておくことは、

第2次世界大戦中の1944年3月11日、エレミターニ教会は
爆撃を受け、他の数多くの芸術作品と共に、この壁画も破壊。

7-eremitani-_GF.jpg


壁面が全部崩れ、瓦礫の中から破片を集め、じきに修復が始まり、
2006年9月16日に、マンテーニャ没後500年を記念し、
最近の修復も終え、再度一般公開されているそうです。

9-orvetani_generale_GF.jpg


むか~し見た時との印象と違うと思いましたが、考えて見ると1990年
だったのですから、それ以降の新しい修復は見ていない訳で!
今回こうしたチャンスに改めてたくさんの事を知り、修復者の方々の
地道なご努力に感謝しつつ、パドヴァに行かないと!と。


新しく知ったのは、マンテーニャの「聖クリストフォロの遺体の搬送」
の部分は、先にこの壁画を剥がし、別に保存していたので、
爆撃の被害は出なかった、という事で、ああ、そうだったのか、と。


皆さんも是非、パドヴァのスクロヴェンニ礼拝堂のジオットのみでなく、
すぐお隣の教会なので、チャンスを見て是非どうぞ!

あ、すぐお隣ですが、エレミターニ教会入り口は、スクロヴェンニの先の
エレミターニ広場からが入り口です。

Chiesa degli Eremitani - Piazza Eremitani, 10 - Padova
入場無料
時間: 冬期: 祭日 9 alle 12.30  と 16 alle 19; 平日 7.30 alle 12.30 と
   15.30 alle 19.
   夏期: 祭日 10 alle 13 と 16.30 alle 20; 平日  8.15 alle 18.45.



・n.3 ラファエッロ「フォリーニョの聖母」 ヴァティカン博物館

10-MadonnaDiFoligno_GF.jpg


ヴァティカン美術館の「ラファエッロの広間」に、当時もこの様に彼の
3点が並んでいたのかどうか、見ておりませんで、

11-cq5dam.web.820h_GF.jpg


1989年1月24日、車いすに乗った男が、このラファエッロの絵に
可燃性の液体を投げつけ、ライターで絵に火を点けようとし、
管理人が直ちに介入し、消火した。

というので、大事に至らず良かったですが、


12-raffaello madonna_GF.jpg

ネットで見つけた当時の新聞記事には、ドイツ人で、別に車椅子が
必要ではない様子の写真で、
魔法瓶爆弾、とあるので、魔法瓶に隠し持って入場したのでしょうね。



また上の3枚の右に見える「マリーアの結婚」も、今回ネットで
1958年6月15日に、ガラスを割られる、という攻撃を受けた事を
知りました。

13-IMG20221116131616981_1000_GF.jpg



・n.2 ミケランジェロ 「ダビデ像」 フィレンツェ、アカデミア美術館

先回の破壊活動 n.1 記事でご案内の、
n.8 1993年4月15日にフィレンツェのヴェッキオ宮入り口脇彫像の
「ヘラクルスとカクス」の台上のイノシシの牙を折り、

そしてn.6 同年1993年10月13日 プラート大聖堂のフィリッポ・リッピ
壁画に、消えない黒いマジックで落書きを。

彼はこの破壊行為を、自分の「傑作」と言っていた様子ですが、


実は彼の破壊工作はそれ以前にもあり、
ピエトロ・カンナータ・Pietro Cannataは、

1991年9月14日に、アッカデミア美術館収蔵のミケランジェロ作の
「ダヴィデ像」の左脚の足指3本をハンマーで削り、

14-piede-david_GF.jpg

連続破壊工作者としてのキャリアを盛大に開始したのでした。 


当時の新聞記事には、
一番左上には、「狂人がミケランジェロのダヴィデにハンマーを」

15-1218_GF.jpg

足指の写真、人差し指(足でも同じ名?)の先が欠けている様に
見えますね。
その上には、「神話マニアがサン・ピエトロ大聖堂のピエタを襲撃した時」

右下のダヴィデ像の横の見出しは、「巨匠を憎む大成しなかった芸術家:
像は有害な影響を受けた模様」



こちらの新聞の左上には、「シー、ダヴィデ像を破壊したかった」
右上のタイトルは、「なぜなら、彼はミケランジェロを羨んでいた」と。

16-David-di-Michelangelo-Piero-Cannata_GF.jpg

右下角の写真で、左の人差し指の先が欠けているのがはっきりと。



こうして写真を探していて、今の彼、という写真が偶然に見つかり、
2016年3月18日の記事で、プラート発

17-image_GF.jpg

「市長さん、私の名前はピエロ・カンナータです。私は文法を扱っていて、
そのため禁止されました。後見人は自分の職務を理解しておらず、
誰も私の話を聞いてくれません。私はどうすればよいでしょうか?」

という抗議分を掲げた彼の、かなり年老いた姿で、70歳との事。

つまり記事の説明によると、彼は上の事件後も何度か事件をおこし、
1999年にはローマの国立近代美術館で、ジャクソン・ポロックの
絵画にもフェルトペンで落書きをしており、

遂に禁治産、というのか、心神喪失者としての保護扱いを受け、
自分の財産を管理処理できずとなり、とりわけ買い物に窮し、

スーパーなどで、必要品を受け取り、支払いの時に資格喪失証明の
書類を提出するのだそうで、
これを「プロレタリア買い物」というのだそうで!
勿論、店長から品物を置いて行くように頼まれるものの、何度か
持ち帰った事もあるのだそう。

彼はある時期に、国営TV1のニューす・キャスターに会おうとしたり、
国連事務総長と会おうとしたり・・、

最近は文法に目を向け、この写真は市議会に出廷した時の物で、
市警察は、彼の掲げたものが不快なものでないのを確認し、
何の措置も取らなかった、と。

この時からも7年過ぎ、彼も既に77歳ですか。
何ともはや・・。


足指の損傷は大きくなく、修復は元の破片を使用し、
特に困難なく修復されたそうで。


こちらは現在のアッカデミア美術館の、新しい照明の下のダヴィデ像。

18-132869-Galleria_dell_Accademia_di_Firenze_-_GF.jpg

一度お目に掛かりましたが、やはり大変に、大変に美しい像でした!!
これからの人々にも長く長く見て頂ける、ダヴィデ像 であります様に!!



・n.1 ミケランジェロ 「ピエタ像」 ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂

1972年5月21日。 日曜日の午前11時30分、
「私は死から蘇ったイエス・キリストだ!」という叫びと共に、
ピエタ像の台座に上り、

狂人は「ピエタ像」をハンマーで15回叩き、聖母に取り分けダメージを
与え、左腕は切り離され、顔には傷が残り、鼻と瞼は砕け・・。

19-0482880_5d521291f9_o_GF.jpg

20-Michelangelo-Pietà-particolare-del-volto-300x202_GF.jpg


彼は像から50個の破片を切り離し、いくつかは非常に大きく、
幾つかは少し小さなもので、

写真を見ると、彼のハンマーは聖母の首辺りにあり、
よくぞ首が折れなかった、と感謝の気持ちが湧く程で!

オーストラリア人のラズロ・トス・Laszlo Toth、考古学者が、
こうして史上最も有名な破壊者となったのでした。

この衝撃ニュースは世界中に広がり、既に51年となる今も、
その時の驚きをよく覚えて居られる皆さんも多い事と思います。



修復はすぐに始められ、現在は聖母の鼻に残る傷だけが
こうした写真では分かる程度となりましたが、

22-pieta-04_GF.jpg


防弾クリスタルに囲まれ、見つめる人々からは隔離された位置、
形となりました。

21-pieta_GF.jpg


が、こうして写真を見ていると、新しい照明がとても素晴らしいのに
気が付きますね。

23-pieta-02_GF.jpg

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上のダヴィデ像もそうですが、徐々に各地の照明がこうして良くなるのを
大いに歓迎し、早くぅ!、と願います。

3月に行ったピッティ宮のパラティーナ美術館の照明は酷く、観にくく、
その前日のウッフィッツィの展示の素晴らしさを一層感じたのでした。

ローマ・ヴァティカンの照明が新しく明るく
https://italiashinkai.seesaa.net/article/464090221.html


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