暫く前、11月16日にフィレンツェのウッフィツィ美術館で
異例のユダヤ人画家の発見報告、研究結果の説明がありました。
異例のユダヤ人画家の発見報告、研究結果の説明がありました。
発見は、ヘブライ学者ピエルガブリエレ・マンクーゾ・Piergabriele Mancuso
と、ウフィッツィ美術館の職員、美術史家のマリーア・スフラメーリ・
Maria Sframeli の2人によって行われたもので、
と、ウフィッツィ美術館の職員、美術史家のマリーア・スフラメーリ・
Maria Sframeli の2人によって行われたもので、
美術史上唯一の、ヨナ・オスティーリオ・Jona Ostiglio
17世紀のフィレンツェで、メディチ家の宮廷に住み、働いており、
当時としては世界でも非常に珍しい、ユダヤ人の画家です。
当時としては世界でも非常に珍しい、ユダヤ人の画家です。

ヨナ・オスティーリオは熟練した多才な芸術家であり、メディチ家のみならず、
フィレンツェの有力な家系であるマンネッリ家・Mannelliからも重要な
注文を受けたり、
ちょっと脱線しますが、マンネッリ家というと、
フィレンツェにお出かけで、ヴェッキオ橋を渡られた方はご存じの筈で、
フィレンツェにお出かけで、ヴェッキオ橋を渡られた方はご存じの筈で、
ほら、ヴェッキオ橋の東南端にあるこの塔、

ヴァザーリの回廊が塔の持ち主マンネッリ家の拒絶に会い、塔を貫けず、
ぐるっと回り道をしている、これがマンネッリ家の今も残る塔で、
ぐるっと回り道をしている、これがマンネッリ家の今も残る塔で、
どうやら現在も様々な家系との婚姻を続け、富を増やし、はは、
しっかりご健在、という様子です。
しっかりご健在、という様子です。
という事で、元に戻りまして、
1680年には非常に権威ある芸術アカデミーに参加できる程に
認識尊敬され、
実際、前世期迄は事実上唯一のユダヤ人のメンバーだったそうで、
認識尊敬され、
実際、前世期迄は事実上唯一のユダヤ人のメンバーだったそうで、
美術史の襞の中に、何世紀にも渡って隠されてきたオスティーリオの
「再発見」は、歴史に前例のない程の信じられない話で、
「再発見」は、歴史に前例のない程の信じられない話で、
上記のヘブライ語学者のピエルガブリエーレ・マンクーゾと、美術史家の
マリーア・スフレメーリとの発見が。
マリーア・スフレメーリとの発見が。
マンクーゾ博士は、昨年メディチ家の治世中のフィレンツェのユダヤ人
コミュニティに関する研究の一環として、スフレメーリ女史と接触し、
コミュニティに関する研究の一環として、スフレメーリ女史と接触し、
ユダヤ人画家ヨナ・オスティーリオのフィレンツェ大公下での活動を証明する
一連の未知の作品と、文書を知らされたのだそう。
一連の未知の作品と、文書を知らされたのだそう。
1907年のラビ、聖書、東洋学者のウンベルト・カッスット・Umberto Cassutto
が署名した記事で、初めて簡単に言及されているのだそうで、
が署名した記事で、初めて簡単に言及されているのだそうで、
全ての痕跡が失われたように見える、この人物は誰?
という、この質問に対する答えを見つけたいという願望から
2人の調査が始まり、
2人の調査が始まり、
僅か1年余りで、ユダヤ人芸術家の人生の再構築、メディチ家宮廷と
後期バロック様式のフィレンツェでの彼の役割の重要性の確認が
出来たのだそう。
後期バロック様式のフィレンツェでの彼の役割の重要性の確認が
出来たのだそう。
これはイタリアのユダヤ人の歴史のみでなく、世界中の美術史にとって
前例のない発見であると。
前例のない発見であると。

教会によって課せられた制限にも拘らず、異端審問にもかかわらず、
17世紀にフィレンツェの主権者はガリレオの命と研究を救うことが出来、
17世紀にフィレンツェの主権者はガリレオの命と研究を救うことが出来、
今、再度、ユダヤ人が絵画活動をするのを許可されていた事、
これは彼と同じ宗教信仰者には許可されていなかった活動で、
これは彼と同じ宗教信仰者には許可されていなかった活動で、
トスカーナ大公自身が後援するアカデミー会員という栄誉を与えられた事、
フィレンツェの最も有名な貴族家から注文を受けることが出来た、と判明し、
フィレンツェの最も有名な貴族家から注文を受けることが出来た、と判明し、
これは非常に大きな歴史的買収であり、メディチ家の寛大さを証明し、
かってレイプ裁判から回復したアルテミジア・ジェンティレスキが避難所を得、
彼らの宮廷で働いた事も忘れないようにし、
彼らの宮廷で働いた事も忘れないようにし、
当時の社会、性別、富、信条に関わらず、何よりも芸術に報いた都市、
がフィレンツェなのです、と。
がフィレンツェなのです、と。
ヨナ・オスティーリオは1620~30年に生まれ、フェルディナンド2世と、
コジモ3世のトスカーナ大公国下のフィレンツェで、
1660~90年にかけて活躍したと推定されており、
1695年以降の世紀の終わりから次世紀の初めに亡くなったであろうと。

オスティーリオは、当初バロック画家、彫刻家のサルヴァトール・ローザ・
Salvator Rosaの忠実な写字生に過ぎなかったものの、
Salvator Rosaの忠実な写字生に過ぎなかったものの、
イタリア国民、つまりイタリア儀式のユダヤ人、イタルキムと呼ばれる一員で、
セファルディ、アシュケナージの儀式が使用されるコミュニティとは違うものの、
ユダヤ人として、組合に入る事も、公式に画家のアトリエに所属も出来ず。
が、ゲットー外の世界に深く精通していた事、当時の芸術界で最も重要な
人物の何人かと交友することが出来た優れた専門的、および個人的関係の
お蔭で、
人物の何人かと交友することが出来た優れた専門的、および個人的関係の
お蔭で、
メディチ家やフィレンツェ貴族の権威ある家系から依頼を受けるだけでなく、
フィレンツェの画家オノーリオ・マリナーリ・Onorio Marinariの工房で
働く事にも成功。
フィレンツェの画家オノーリオ・マリナーリ・Onorio Marinariの工房で
働く事にも成功。
彼の最も成熟した作品の幾つかは、現在、ウッフィッツィ、
ポッジョ・ア・カイアーノのメディチ家の別荘、フィレンツェの
サン・サルヴィのサン・ミケーレ教会、
更にはローマのファルネジーナ邸にも保管されていると。
更にはローマのファルネジーナ邸にも保管されていると。
従って、この日から「17世紀 匿名画家」が外され、
「ヨナ・オスティーリオ、および帰属」の札が付けられます。

という、大変に歴史的にも貴重な、そして17世紀のフィレンツェの画家の
再発見という、珍しい報告のお知らせでした。
載せた絵は、実際にサイトにある絵は多分長年のニス焼けと思われる
茶色が濃すぎて、細部がよく見えないので、
茶色が濃すぎて、細部がよく見えないので、
ほんの少し明るく修正していますので、その点ご承認下さる様お願い致します。
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