今日はサイトで見つけた記事で、可愛い少女の彫刻を見つけたので、
それのご紹介を。
それのご紹介を。
今日の彫刻:ラインハートの ローマ・ライマン
La Scultura del giorno: Roma Lyman di Rinehart
La Scultura del giorno: Roma Lyman di Rinehart
彫刻家は、ウィリアム・ヘンリー・ラインハート・William Henry Rinehart
「ローマ・ライアン」というタイトルの少女像です。


皆さんはご存じでしたか?
私はラインハート、という名はどこかで頭に入っていた様ですが、
実際に彼の作品は、という様に見た事がなく、
私はラインハート、という名はどこかで頭に入っていた様ですが、
実際に彼の作品は、という様に見た事がなく、
今回しげしげとその描写を眺めました。


ラインハートは、アメリカの新古典主義芸術の主要な作家だそうで、
1825年9月13日の生まれ。
1825年9月13日の生まれ。
メリーランド州の、息子に教育を受けさせる事に関心がなく、家族経営の
農場で働く両親だったそうで。
農場で働く両親だったそうで。
彼は働きながら卒業し、1844年に19歳でメリーランド・インスティテュート・
カレッジ・オブ・アートの夜間クラスに参加し、ボルティモアの石切場で
本格的な見習いを始めたのだそう。
カレッジ・オブ・アートの夜間クラスに参加し、ボルティモアの石切場で
本格的な見習いを始めたのだそう。
そしてある晴れた日、彼は幸運にも美術収集家で鉄道事業者の
ウィリアム・T.ウォルターズに会い、
自宅の、彫刻が施された暖炉の正面の修理をするよう依頼され、
ウィリアム・T.ウォルターズに会い、
自宅の、彫刻が施された暖炉の正面の修理をするよう依頼され、
少年の才能を感じ取ったウォルターズは、フィレンツェで自分を
磨く機会を彼に提供したのだそう。
で、彼はイタリアに2年間滞在し、その後帰国、すぐにイタリアに戻って
仕事をするのを夢みていたにもかかわらず、遂に自分のスタジオを
開くことが出来ました。
仕事をするのを夢みていたにもかかわらず、遂に自分のスタジオを
開くことが出来ました。
そして数年後の1858年、最終的にローマに移り、1875年の
自分の最後の日まで留まり、
つまりラインハートは50歳の誕生日の直前に、肺病で亡くなりました。

彼の究極の願いは、経済的困難にある若者の芸術研究を支援する為に、
自分の全ての収入を割り当てることだったそうで。
自分の全ての収入を割り当てることだったそうで。
この世に、大変苦労し努力して自分を輝かせる為に生まれて来て、
そして希望はかっての自分と同じような若者を援けること、と、
どこか聖人の様な方みたいですねぇ!
そして希望はかっての自分と同じような若者を援けること、と、
どこか聖人の様な方みたいですねぇ!
他にもネットであれこれの作品を見つけて来たのですが、
子供の何とも言えない可愛らしさ、純真さの作品が好まれた様で。


大人の肖像的なものも、どこかカノーヴァに似た感じもするものの、


でも違う、なんというのかなぁ、世間離れしているというか、欲がまるでない、
つまり色気がない、とでも、すんません、こんな感想は良くないかな?
でもね、欲がない、というのは一見良さそうでもありますが、
そこで完了して、こちらに語り掛けてこない、という様な感じ、分かりますか?
そこで完了して、こちらに語り掛けてこない、という様な感じ、分かりますか?
綺麗すぎる、という感じ、なのかも。


その辺りが、ちょっと物足りない様な・・。 と偉そうなことを、済みません。
そう考えると、まさに彼の生い立ち、生涯そのものだなぁ、と。
という、ウィリアム・ヘンリー・ラインハートの作品ご紹介でした。
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