19世紀後半から20世紀にかけての、オーストリアのウィーン分離派、
象徴派、表現主義に影響されつつ独自の絵画を目指した、
と言われるエゴン・シーレ・Egon Schiele(1890-1918)
象徴派、表現主義に影響されつつ独自の絵画を目指した、
と言われるエゴン・シーレ・Egon Schiele(1890-1918)
僅か28歳の若さで亡くなった彼ですが、
その彼が16歳、1907年に描いた、叔父のレオポルド・チハチェク・
Leopold Czihaczek の肖像画、
Leopold Czihaczek の肖像画、
失われたと思われていたのが、個人コレクションの良好な状態で
保存されていたのが見つかった、というニュースです。
こちら

参考にした記事は、2022年5月20日付けの、
16歳のエゴンシーレが描いた叔父の肖像画、長く探されていたのが個人コレクションで見つかる、
Scoperto in una collezione privata un quadro dipinto da Egon Schiele 16enne, a lungo cercato. Lo zio ritratto
ピアノに向かう叔父のレオポルド・チハチェクの姿で、
如何ですか? サイトで見かける彼の強い、尖った印象の作品とは違い、
柔らかな印象と色の、印象波風の絵で、でもピチっと叔父さんの顔は決まり、
柔らかな印象と色の、印象波風の絵で、でもピチっと叔父さんの顔は決まり、
彼の弾くピアノの旋律が流れる様な、わざとぼかした楽譜、弾く手、と
既に彼の描く意図がよく分かる作品ですね。
既に彼の描く意図がよく分かる作品ですね。
叔父さんのレオポルド・チハチェクは、エゴンの父親が1905年に早すぎる
死を遂げた後、その姉妹の1人マリー・Marieと結婚していたレオポルドが
法定後見人となったそうで、
オーストリア王立国鉄に所属するカイザー・フェルディナンド-ノルトバーンの
次官兼主任検査官、公務員。
次官兼主任検査官、公務員。
ウィーンのレオポルトシュタット地区のツィルクスガッセの彼のアパートには、
2台のピアノを備えた大きな音楽ホールがあったと!
2台のピアノを備えた大きな音楽ホールがあったと!
1907年から1908年にかけ、シーレは数回叔父を描き、レオポルドは
甥から直接作品を受け取っていたそうで。
甥から直接作品を受け取っていたそうで。
叔父さんとしては、勉学を熱心にさせ、国鉄でのキャリアを目指すように
させたかったものの断念、
絵の才能を大いに示す事からウィーン美術学校への入学を勧め、
1906年10月3日 レオポルド・チハチェクは妻のメリーに電報を、
「エゴンは見事に通った」と!
「エゴンは見事に通った」と!
が、当時すでに68歳のアカデミー教授のクリスチャン・グリーペンケルの
関係は緊張をはらみ、古典的な描き方のみを教える授業に愛想をつかし、
彼と仲間の多くは1909年春にアカデミーを去り、
独学で、また自分の感性に近いアーティストと結びつき、当時は前衛的と
見られていた様々なスタイルを試し、成長し、
見られていた様々なスタイルを試し、成長し、
グスタフ・クリムトとの出会いもあり、ウィーンでの画家としての出発点で、
クリムトに経済的に安定する事を援けられます。
クリムトに経済的に安定する事を援けられます。
子供時代のトラウマ、父親アドルフの梅毒からの精神病の進行が彼の絵に
与えたと思われる陰気で憂鬱な世界のイメージ、
与えたと思われる陰気で憂鬱な世界のイメージ、
そしてクリムトと共通の要素、裸体と男性女性両方のセクシュアリティの描写、
クリムトの場合は女性ですが、シーレは自画像も含め、男性像も多い、
クリムトの場合は女性ですが、シーレは自画像も含め、男性像も多い、
という絵画世界を広げていくようになります。
が、今回はシーレの成長期、叔父さんの肖像画に絞る事にしますね。
で、失われた、と思われていたエゴン・シーレ16歳の絵が見つかった、と
いう主題に戻りますと、
実は、この様に絵が飾られた部屋の白黒写真が残っており、
唯一の手掛かりだったそうです。
唯一の手掛かりだったそうです。

エゴンが17歳の誕生日を迎える直前に描いた絵で、大きさは
60,2x100,7cm、厚紙に描かれたテンペラ画(多分グワッシュを指すと)
写真は1930年12月初旬に、グスタフ・フーバー・Gustav Huber
(1878-1945)が、マリー・チハチェク、叔父のレオポルドの妻、に
送ったもの。
(1878-1945)が、マリー・チハチェク、叔父のレオポルドの妻、に
送ったもの。
で、このグスタフ・フーバーなる方は、エゴン・シーレと同様に両親の
早すぎる死の後、レオポルド・チハチェクから財政支援、法律の勉強の為
を受けていたそうで、
1945年に亡くなるまで、この絵を所有していたのだと。
つまりシーレと同様に財政支援を受け、後にオーストリア国鉄の取締役
に任命された時、フーバーはこの恩人の顔をいつも見れるよう、
肖像画をお祝いに貰い受けたのであろうと想像され、
に任命された時、フーバーはこの恩人の顔をいつも見れるよう、
肖像画をお祝いに貰い受けたのであろうと想像され、
絵の来歴由来としてはとても明確で、フーバーが亡くなった後は個人の
コレクションに入っていたのだそう。
コレクションに入っていたのだそう。
写真の、壁のシーレの描いた絵の横の女性は、妻のマリー。
この若きエゴン・シーレの描いた絵は、現在ウィーン美術館に所蔵されて
いますが、

作品の所有者は、レオポルド博物館に永久貸与する事に同意したそうで、
クリーニングと修復の後、
2001年に開設されたウィーンのレオポルド博物館に展示されるそうで、
収益から、いずれこの絵の買い上金が生まれる事を願っている、との事。
レオポルド博物館は、世界一のエゴン・シーレの絵の収集を誇っているそうで、
その中にあっても、この若き日に描いた叔父さんの肖像画は、異質の、
そして彼の早熟な才能をよく示している作品として、唯一となるでしょう。
そして彼の早熟な才能をよく示している作品として、唯一となるでしょう。
shinkaiはエゴン・シーレの絵は余り好みではありませんが、
今回見つけたこの1914年、24歳の自画像、 物凄く利発な若者が、
絵の中から逆にこちらの様子、反応をうかがっている様なのが気に入り、はは、
最後にどうぞ!
絵の中から逆にこちらの様子、反応をうかがっている様なのが気に入り、はは、
最後にどうぞ!

彼は師でもあったクリムトと同じスペイン風邪で、1918年10月31日に、
クリムトも1918年2月6日と、同年に、彼より少し早く亡くなったのでした。
クリムト・ヴィッラ クリムトの最後で唯一残る、ウィーンのアトリエ
https://www.italiashiho.site/archives/20210130-1.html
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