・ 絵はパスし、ヴェネツィアの「ポンテ・デッラ・パーリア・藁の橋」あれこれ

ヴェネツィアに行かれた方、またはヴェネツィア大好きな方、
「ポンテ・デッラ・パーリア・藁の橋」と聞いて、ああ、あそこの橋、と
お分かりでしょうか?

多分、すぐお分かりの方も少ないと思うのですが、
ヴェネツィアに行かれた方はほぼ全員、渡っておられる筈!

なぜって、ほら、この「溜息橋」をバックに記念写真を撮られたり、
単純に、溜息橋を写したりするのに渡る、立ち止まるのが、

1-Antonio_Contin_-_Ponte_dei_sospiri_(Venice).jpg



この「ポンテ・デッラ・パーリア・Ponte della Paglia」で、
「溜息橋」の1つ大運河寄りにある橋なのですね。

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「ポンテ・デッラ・パーリア」は1100年に架けられた橋で、多分木製、
幅3mあったそうで、

ここはサン・マルコ広場、小広場から、東のカステッロ地域までを結ぶ重要な
位置で、現在の橋は1854年に架け替え、拡張されたものと。



ですが、なぜ「パーリア・藁」の橋、という名前なのか、となると、
きっとご存知の方は少ないと思います。 
shinkaiも最初知った時は、なんで?と思いましたもの。

でもこの「藁」には大きな意味があり、そしてこの場所も重要なのでした。

「藁・パーリア」の名は、率直に「藁」がこの河岸に運ばれてきて降ろされ、
選別され、また積み込まれた場所だったからと。


というのも、パラッツォ・ドゥカーレにある監獄、地下の「ポッツィ・井戸」、

ポッツィ・井戸の複、と呼ばれたのは、地下、運河の水面よりも下になり、
冬は凍える寒さ、

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天井裏の「ピオンビ・鉛」と呼ばれた
ピオンビ・鉛の複、は屋根に葺かれた鉛板で、夏の暑さが大変だったそうで、

7-Casanova-Piombi.jpg


その監獄の囚人達の為の「わら袋」用、布団、マットレスに使い、

家庭でもベッドのマットレス用に、

また干し草、これは島の東端のカステッロ地区に厩舎のあった馬やロバの餌用に、

または家の屋根用に、これは火事除けに泥を混ぜての使用と、


藁の区分け、選別をし、行先別に船に積み込む駅の役割に、
橋の両脇に広がる河岸が使われたのだそう。


で橋の両脇に、ドゥカーレ宮側と監獄宮側に、木製の小さな小屋、
管理所があり、共和国兵士が橋の上で通行人を見張り、
また藁の積み下ろし、積み込みを見張りつつ、税徴収をしたそう。


現在の監獄宮、ドゥカーレ宮から囚人たちが溜息橋を渡る監獄宮は
16世紀末にドゥカーレ宮の獄舎が手狭になり、1589年から1614年に
建設されたものですが、

4-ponte della paglia.jpg

橋の手前右が監獄宮で、ちょうどこの前で、水死人達の認識の為の展示が行われたそうで!


という様な、「藁」の名前から受ける、素朴な何でもないもの、という
イメージからは程遠い、重要な意味を含んだ「藁の橋」なのでした。



ドゥカーレ宮から渡る「溜息橋」の、あの美しいレース模様も、
渡る囚人側から見ると、こんな感じで、

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隙間から見える「ポンテ・デッラ・パーリア」はこんな風に見える、

9-Ponte-dei-Sospiri-4.jpg


一見大変華やかなサン・マルコ周辺ですが、こんな厳しい面もあった訳で!

パラッツォ・ドゥカーレの屋根裏の牢、「ピオンボ」から脱出のカザノヴァは
n.4 パラッツォ・ドゥカーレ・ディ・ヴェネツィア
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464579305.html


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posted by shinkai at 01:31Comment(0)・欄外