トリエステの運河の水面の下描きが一応出来たので、見てやって下さい。
運河の水面 トリエステにて 41x27,5cm 6号P

モチーフはトリエステの街中、港から引きこまれた幅広の運河で、
午後の光が当たった壁の柄、確か煉瓦で模様が描かれた壁の柄が
余り波の経たない運河の水面に映えていた様子です。
午後の光が当たった壁の柄、確か煉瓦で模様が描かれた壁の柄が
余り波の経たない運河の水面に映えていた様子です。
ず~っと昔に撮った写真だったのですが、しっかり頭に残っており、
昨年の秋の広島の個展から戻って以来、何か雑念が常に頭にあり、
いまいち絵にじっくり取り組めないのが気になり、自分の性格も考え、
細かい仕事に追われるようなのに取り組めば、余計な事を考えずに済むかも、
と、このモチーフを思い出し、取り掛かったのでした。
昨年の秋の広島の個展から戻って以来、何か雑念が常に頭にあり、
いまいち絵にじっくり取り組めないのが気になり、自分の性格も考え、
細かい仕事に追われるようなのに取り組めば、余計な事を考えずに済むかも、
と、このモチーフを思い出し、取り掛かったのでした。
柄は元々好きとはいえ、はぁ、波がないだけに本当に細かい水面で、
ほとんど全部写り込んでいる、というやつ、ははは、
6号どころかもっと大きな画面にすればよかった、とも思いましたが、
ほとんど全部写り込んでいる、というやつ、ははは、
6号どころかもっと大きな画面にすればよかった、とも思いましたが、
まぁ、やっとの思いで下描きを済ませ、一応の色も入れ、
この程度まで進まないと、見て頂いても仕方ないので頑張り、
この段階でも省略すべきは省略しつつ、さて、どのように描いていくか、
と考えています。
頑張りま~~す!
*****
今日の第2部 モデナ県アペニン山中の4つの橋
先々回の「イタリアの素晴らしいパブ」以来、エミーリア・ロマーニャ州はモデナ県の
パヴッロ・ネル・フリニャーノという町と、その周囲の様々な物、城、人物、橋などに
サイト記事の興味深いのが見つかったおかげもあり、惹かれ、
皆さんにも、とご紹介しておりますが、
パヴッロ・ネル・フリニャーノという町と、その周囲の様々な物、城、人物、橋などに
サイト記事の興味深いのが見つかったおかげもあり、惹かれ、
皆さんにも、とご紹介しておりますが、
今回はやはりパヴッロ・ネル・フリニャーノ・Pavullo nel Frignano近くの
山中にある4つの古くからの橋のご案内を。
山中にある4つの古くからの橋のご案内を。
では、先回もちょっと見て頂いた「ポンテ・オリーナ・Ponte Olina」から。

地図をどうぞ。 パヴッロの町が右上に、そしてオリーナの村、住民44人、
パヴッロから南西に9km程にあり、橋は村の南に印をつけた位置に。

この見える川がスコルテンナ・Scoltennaと言い、今日ご紹介の3つの橋が
この川に架かっているのですね。
この川に架かっているのですね。
写真でお分かりの様にかなり高いアーチですが、高さを書いたのが見つからず、

建設されたのは1522年で、このスコルテンナ川は南のトルカーナ州との
境に近い山中1964mに水源を持ち、北東に向かって流れ下り
パナーロ川・Panaroに合流する33kmの河ですが、
橋は地元民の要請というよりはフィレンツエとルッカのシニョーリ、この場合
大商人そして政治家たち、という意味合いと思いますが、
彼らはこの橋を越えた先のパヴッロの町を一つの逗留点として、
トスカーナとエミーリアを結びたかったのだと。
大商人そして政治家たち、という意味合いと思いますが、
彼らはこの橋を越えた先のパヴッロの町を一つの逗留点として、
トスカーナとエミーリアを結びたかったのだと。
ちょっと見には16世紀というよりは、もっと古い時代の橋にも感じるのですが、
この曲線のアーチが建築上の技術的な荷重を捌き、伝統の古い橋では
耐えられなかった重さをさばいているのだそうで、と、単純に要約のご説明で。
この曲線のアーチが建築上の技術的な荷重を捌き、伝統の古い橋では
耐えられなかった重さをさばいているのだそうで、と、単純に要約のご説明で。
興味深いのは、上の写真でも良く分かりますが、橋の袂近い位置の両側に、
ほらちょっと出っ張りが付いているのが分かりますね。
これは先行して来た荷車に道を譲るための物なのですって。
ほらちょっと出っ張りが付いているのが分かりますね。
これは先行して来た荷車に道を譲るための物なのですって。

このアペニン山脈の山中にかかるたくさんの古い橋には、やはり土地それぞれの
伝承というか、怪談話めいたものが伝わるそうで、
嵐の夜、暗い橋を渡っていると、誰かが橋から投げ落とされたような様子の
援けを求める苦しげな声が聞こえる、とかね。
という所で、地図をもう1枚どうぞ。 やはり右上にパヴッロが見え、
ポンテ・オリーナの位置、そして一番真ん中上に見えるポリナーゴ・Polinago、
ここに今回4つめにご紹介の橋があり、

同じスコルテンナ川を遡る先に見えるポンテ・デッラ・ルーナ・Ponte della Luna
と、その南ポンテ・デッラ・フォーラ・Ponte della Folaがあります。
と、その南ポンテ・デッラ・フォーラ・Ponte della Folaがあります。
他にもたくさん橋が見え調べましたが、やはり取り上げている4つの橋が興味深く。
で、2つ目のポンテ・デッラ・ルーナ。 ここも見事に高い位置にアーチがあり、
渡る時の見晴らしは素晴らしいものと。
渡る時の見晴らしは素晴らしいものと。

中世にはたくさんの道が橋がスコルテンナ川を渡り、谷の両側の村を結んでいて、
ですがこの橋は余り長くなく、そして19世紀にというのでそう古くもない橋ですが、
でもこういう石橋は趣がありますねぇ。

橋の袂の様子。

そして、3つ目のポンテ・デッラ・フォーラ、2重のアーチですね。
この橋は中世後期に架けられた橋で、当時この形の石橋を架けるのは
本当に一大仕事だったことを考えさせられると。

実際、安全性は低いものの安く済む筏式や、木の橋が架けられるのが
普通でしたからね。
普通でしたからね。
が、ここにこの様な橋が架けられたのは、中世にここをエミーリアとトスカーナを
結ぶ重要な道が通り、モデナやピストイアを結んでいたからなんだそうで。
結ぶ重要な道が通り、モデナやピストイアを結んでいたからなんだそうで。
やはりかなり高いですから、水流もかなり高い時もあるのでしょうね。

橋の上の眺め。 如何にも中世を感じさせる橋。

見つけた1930年代の写真。 やはり修復されているのですね。

フォーラの橋の写真を探していて見つけた、釣り人と釣果。 大きい!

4つ目、最後の橋は地図の一番上に見えるポリナーゴの村のチェルヴァーロ橋・
Cervaro。

この一帯の大変に古くからの村だそうで、「オスピタレット・Ospitaletto」で
知られ、つまり徒歩力者、巡礼達、そして荷駄を引く馬たちの為の世話と手当が
受けられる村だったのだそう。
知られ、つまり徒歩力者、巡礼達、そして荷駄を引く馬たちの為の世話と手当が
受けられる村だったのだそう。
当時まだ古い時代の北イタリアから、北ヨーロッパからローマに向かう巡礼たちは、
モデナからのアペニン山脈越えをしていて、彼らを迎え入れていた村だったのですね。
モデナからのアペニン山脈越えをしていて、彼らを迎え入れていた村だったのですね。
今は渡る人もいないような風情に見えますが・・。

という様な、モデナのアペニン山脈の中を越えて行く道にかかる橋4つでした。
お知らせを。
明日25日に白内障の手術を受け、その後1週間か10日は様子を見つつ
ブログをお休みさせて頂きますので、宜しくお願い致しま~す。
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