モンティキエッロの途中経過を見てやって下さい。
古い小さな村の小さな店 モンティッキエッロ 27,5x21cm 3号
左側の影の部分も一応すべてを、そして右の陽の当たった部分の石の壁の
凸凹を、実際はもう少し色も濃く、影の色も濃いのですが、
こちらは全体に明るめにしたく、その様な色で詰めて見ました。
凸凹を、実際はもう少し色も濃く、影の色も濃いのですが、
こちらは全体に明るめにしたく、その様な色で詰めて見ました。
仕上げも大体こんな感じで、と思っています。
アーチの下の店の中は暗い黒の部分は濃くしましたが、他の品物類は最初のまま、
扉の木枠などは手描きでしていたのが、ふと見るとかなり歪んでいたりで、きゃ、
一応問題なく水平線に見える様に直しました。 へへへ。
扉の木枠などは手描きでしていたのが、ふと見るとかなり歪んでいたりで、きゃ、
一応問題なく水平線に見える様に直しました。 へへへ。
左右の壁を見ると、右側はごつごつの大きな石を使っているのに対し、
左の方は以前にあった壁を利用したのか、小さめの表面がすべらかな石が混じり、
それが影の中だとぺらっとした感じになり、ちょっと困っていますが、
まぁ、あちこちの凸凹石や、色の変化の感じなどで描いています。
左の方は以前にあった壁を利用したのか、小さめの表面がすべらかな石が混じり、
それが影の中だとぺらっとした感じになり、ちょっと困っていますが、
まぁ、あちこちの凸凹石や、色の変化の感じなどで描いています。
ここで使っている紙はキャンソンの紙で、一般の水彩紙と比べるとシボが殆どなく、
色鉛筆でもすらっとした感じに塗れるので良いかと思ったのでしたが、
逆に今迄よりも色の塗り方を手加減とかタッチとか、下に入れる色、上から入れる色を
意識しないといけない事に気が付き、まだ慣れていない事もあり描きにくい気も
意識しないといけない事に気が付き、まだ慣れていない事もあり描きにくい気も
していますが、
もうちょっとやってみない事にはね、と思いつつ、頑張りま~す。
*****
今日の第2部 ロレンツォ・イル・マニーフィコの通称とあれこれ
今日ご紹介する記事は、フォーリア・マガジンというサイトの、
1492年4月9日 ロレンツォ・イル・マニーフィコが亡くなった・
Il 9 Aprile moriva Lorenzo Magnifico という記事です。
この肖像はフィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿にある礼拝堂のフレスコ画、
ベノッツォ・ゴッツォーリ描く、若きロレンツォというのですが、
ベノッツォ・ゴッツォーリ描く、若きロレンツォというのですが、

大変煌びやかなフレスコ画全体の中でも如何にも貴公子然とした、白馬に跨る
ロレンツォ・デ・メディチの姿で、
ロレンツォ・デ・メディチの姿で、

イル・マニーフィコ・偉大なる、という敬称を受けていたロレンツォに相応しい肖像画と
して選ばれたと思うのですが、
して選ばれたと思うのですが、
悪口shinkaiは、それにしてもこれはゴッツォーリの物凄いヨイショだなぁ、と、ははは。
最初から脱線しましたが、へへ、記事の趣旨としては、
1469年から1492年にかけ約20年間フィレンツェのシニョーレとして、政治面文化面の
中心にあったロレンツォ・デ・メディチ・Lorenzo de'Mediciが、
その後もずっと「マニーフィコ」の名と共に記憶されているのは、どうして、という物。
当時のメディチ家の当主は「ゴンファロニエーリ・ディ・ジュスティーツィア・
Gonfalonieri di Giustizia」という、フィレンツェ共和国にあって最高の地位にあり、
Gonfalonieri di Giustizia」という、フィレンツェ共和国にあって最高の地位にあり、
「マニフィコ・メッセーレ・Magnifco Messere」という裁判官や公証人への尊称を
受けていたのだそう。
受けていたのだそう。
で、この地位は祖父のコジモ・イル・ヴェッキオも、父親のピエロ、通称ゴットーゾ・
Piero il Gottosoも受けていたものだそうですが、
Piero il Gottosoも受けていたものだそうですが、
これは同じゴッツォーリの絵の中に見える白馬に跨る父親ピエロと、
その左茶色のロバに跨る祖父のコジモ・イル・ヴェッキオの姿。

ロレンツォの亡くなったのは43歳の時、通常この地位を受ける事の出来る45歳には
2年不足の年で亡くなった訳ですが、
彼は父親ピエロが亡くなり、メディチ家の当主となった21歳の時から既に
「マニフィコ・メッセール」と呼ばれたのだそう。
「マニフィコ・メッセール」と呼ばれたのだそう。
つまりフィレンツェの街、国から、どうぞこの国、街を護って下さい、という
希望を託されてで、その時からフィレンツェの「イル・マニーフィコ・ロレンツォ」と
呼ばれる様になったのですね。
後年ゴンファロニエーリ・ディ・ジュスティーツィアのタイトルも無くなったものの、
ロレンツォがフィレンツェに与えた功績に対し、
それ以降「マニーフィコ」と呼ばれるのは唯一、ロレンツォ・デ・メディチを
ロレンツォがフィレンツェに与えた功績に対し、
それ以降「マニーフィコ」と呼ばれるのは唯一、ロレンツォ・デ・メディチを
指す事になったのだそう。
という記事だったのですが、
これを読んだ後に、ロレンツォが43歳という若さで亡くなったのは何が理由で?という
疑問が湧き、調べました。
こちらは壮年のロレンツォの肖像、ジョルジョ・ヴァザーリの描いた物ですから、
かなり実際に近いイメージではないかと思うのですが・・。
かなり実際に近いイメージではないかと思うのですが・・。

で、死因を調べましたら、父親から受けた痛風が原因と分かりました。
つまり父親の仇名ゴットーゾは、通風病みのピエロ、という意味で、
若い頃から病弱で、彼の父コジモは跡を継がす長男の病弱を大変気にしていた様子で、
が5年間ピエロは力いっぱい頑張り、1469年53歳で亡くなり、
が5年間ピエロは力いっぱい頑張り、1469年53歳で亡くなり、
21歳の息子ロレンツォに跡を渡したわけですね。
ですがやはり祖父のコジモも痛風で苦しんでいた様子で、これはもう
メディチ家の遺伝病とも言うもので、
ロレンツォは亡くなる数年前から、つまり30代後半から痛風に苦しみ、
次第に健康状態が悪くなり、トスカーナの温泉通いもした様子ですが良くならず、
次第に健康状態が悪くなり、トスカーナの温泉通いもした様子ですが良くならず、
それまでは父親ピエロの様な悪い状態ではなかったので、病状を軽く見ていた
医師たちの手当も遅れた様子で、1492年の春に最終的な病状、
潰瘍から壊疽となったと。
潰瘍から壊疽となったと。
フィレンツェの街から北にあるヴィッラ・ディ・カレッジに移され、後継ぎのピエロに
様々な事を託した後、4月8日の夜43歳の若さで息を引き取ったのだそう。
様々な事を託した後、4月8日の夜43歳の若さで息を引き取ったのだそう。
当時は生まれた子を2歳まで授乳し、赤ちゃんの死亡率が高かった事からも恐れ
外に出さずに育てたので、ヴィタミンDの不足から骨も弱くなり、
裕福な家庭の中で食事は多量でプロテイン豊富という事で、これらは肥満や糖尿病の
原因ともなり、また当時の痛風の療法としては、単に貴石の粉を処方する程度、
惑星の石に繋がり、病気が消える事を願っての事という事で、
病気の原因も分からずの、不幸な病でもあったのですね。
原因ともなり、また当時の痛風の療法としては、単に貴石の粉を処方する程度、
惑星の石に繋がり、病気が消える事を願っての事という事で、
病気の原因も分からずの、不幸な病でもあったのですね。
という様な、
ロレンツォ・イル・マニーフィコの通称から、通風にまで至った今回でした。
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