イタリア中に大雨、強風、大洪水の被害が続き、あれこれ日本のニュースにも
出ている様子ですが、お陰様でこちら、と言っても我が家の辺りは特別な大雨も、
被害もなく過ぎております。 ご心配頂きまして有難うございます、大丈夫です!
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出ている様子ですが、お陰様でこちら、と言っても我が家の辺りは特別な大雨も、
被害もなく過ぎております。 ご心配頂きまして有難うございます、大丈夫です!
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ベリー公の時祷書の模写、途中経過を見てやって下さい。
ベリー公のいとも豪華なる時祷書 4月 模写 48.5x30,5cm
Très Riches Heures du Duc de Berry
Très Riches Heures du Duc de Berry

先回見て頂いた時はまだほんの下描きでしたが、漸くに少し進んで来ています。
ですが、まだまだ下塗りも2,3回という所で、これから徐々に色を重ね、
描きこんで行きます、・・先は長い!
描きこんで行きます、・・先は長い!
描いていて一番難しいのは、今回の木立の緑の色で、この辺りランブール兄弟
自身の手ではなく、工房の弟子に任せたのではないかと思える色と形で、
空との関係や、色の発色もイマイチに思えるのですが、
自身の手ではなく、工房の弟子に任せたのではないかと思える色と形で、
空との関係や、色の発色もイマイチに思えるのですが、
まぁ、その辺り余り実物に近づけようとすると逆に難しくなるので、ははは、
適当に雰囲気を出せる様に、と考えています。
適当に雰囲気を出せる様に、と考えています。
いま明るく見え過ぎる湖も、最初の色のままですし、右の館、奥の囲った庭園も
まだほんの少し色を付けただけになっていますので、
まだほんの少し色を付けただけになっていますので、
徐々に描きこみを頑張って行きま~す。
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今日の第2部 パルマ近郊の古い城カステッロ・ディ・フェリーノ
本家ブロブの「パルマでの旨いもの!」にも書いたのですが、トッレキアーラの城を
見に行って後お昼を食べるのに、教えて貰ったお城のレストランを探し回りましたが、
そんな事で偶然に出会った城、カステッロ・ディ・フェリーノ・Castello di Felino.
見に行って後お昼を食べるのに、教えて貰ったお城のレストランを探し回りましたが、
そんな事で偶然に出会った城、カステッロ・ディ・フェリーノ・Castello di Felino.
こじんまりとした城だったのですが、大変頑丈な城のように見受けられ、
当てにしていたレストランは現在閉めていて、内部は見ておりませんが、
家に戻って後調べるとあれこれ興味深い事も分かりましたので、
サイトからの写真も含め、皆さんにも。
当てにしていたレストランは現在閉めていて、内部は見ておりませんが、
家に戻って後調べるとあれこれ興味深い事も分かりましたので、
サイトからの写真も含め、皆さんにも。
まずは、サイトで見つけた上空からの全体の姿を。

4隅に塔を持つ四角い城、要塞で、唯一の出入り口が今手前に見えますが、
ここもかっては当然ながら跳ね橋だった訳でここにもう一つの塔、そして周囲を堀が
取り囲んでいますが、現在は空堀に。
場所の地図を。 北にパルマ・Parmaがあり、フェリーノの城はパルマから18kmと。
下に見える美しい城トッレキアーラ・Torrechiaraとの距離は車で10km、約16分。
城の入り口、堀に石造りの橋が架かっていますが、向こうに届く手前はかっては跳ね橋で、
現在は木の短い橋が掛かります。

橋を渡り中庭に出る前にこのカーペットがあり、SEC,IX とあるのは9世紀で、
これは後12世紀に城が建設された以前の要塞が、多分890年頃に、という事です。

最初の上空からの写真にも見えましたが、内部はかなり広い中庭になっており、
周囲を2階の回廊が巡ります。
周囲を2階の回廊が巡ります。



これは1970年代の写真、絵葉書だそうで、現在は周囲をかなりの木立が取り囲んで
いて、建物自体の修復も見事になされているのが分かります。

現在「サラーメの博物館」が地下に出来ているというもので、ここフェリーノの
サラーメ・ハムは大変味の良い事で知られており、ナポレオンの妻が1822年に
サラーメ・ハムは大変味の良い事で知られており、ナポレオンの妻が1822年に
出したフェリーノの市に関する告示にも記されているほどなんですと。

城は結婚式、講演会、集会、展示会などに使われており、他にもチャームな宿として
宿泊もできる様で、その時にはレストランが開かれるのではないかと。





サイトはこちらに。 http://www.castellodifelino.it/
城、要塞としての歴史は、12世紀に建設され、時代を経るうちに堅固に拡張され、
とりわけ14世紀にロッシ家・Rossiの手に渡って後、実戦的な配備も充実し、
近くのトッレキアーラの城も築いたピエール・マリーア・ロッシ・Pier Maria・Rossiが、
1483年にミラノのルドヴィーコ・イル・モーロを迎え撃った時も、城は落ちなかったと。
とりわけ14世紀にロッシ家・Rossiの手に渡って後、実戦的な配備も充実し、
近くのトッレキアーラの城も築いたピエール・マリーア・ロッシ・Pier Maria・Rossiが、
1483年にミラノのルドヴィーコ・イル・モーロを迎え撃った時も、城は落ちなかったと。
ただ戦争自体は破れたので、この要塞城も破壊されますが、後に再建され、
パッラヴィチーノ家・Pallavicino、スフォルツァ家・Sforza、ファルネーゼ家・
Farneseと領有者が移るうちに、居城としての改装がなされて行ったとの事。
パッラヴィチーノ家・Pallavicino、スフォルツァ家・Sforza、ファルネーゼ家・
Farneseと領有者が移るうちに、居城としての改装がなされて行ったとの事。
予てからの念願だったトッレキアーラの城を見て、次回にご案内出来る様に、現在
あれこれ予備知識を得るのに読んでおりますが、考えて見れば当たり前とはいえ、
近くの古城にもピエール・マリア・ロッシの足跡があるのを知り、興味深かったです。
あれこれ予備知識を得るのに読んでおりますが、考えて見れば当たり前とはいえ、
近くの古城にもピエール・マリア・ロッシの足跡があるのを知り、興味深かったです。
これは入り口側から見た、跳ね橋の塔と、右の角の塔で、

下部はこんな様子で、かっての深い堀跡が残り、

こちらは入り口の橋、唯一の城要塞への入り口の橋で、

北側はこんな様子。


実は最初ここに到着した時、レストランがあるらしき標識も見えず、様子も分らず、
ひとまず門を入って来た所から下に降りる道を下り、ぐるっと城の周囲を回ったのですね。
手前側はこんな風にかなり広いのですが、

東側はやはり同じように塔と建物が聳え、南側の道は狭くともまぁ車は通れ、ぐるっと回り、
上の写真に見える様に北の広場、かっての堀の底に、ははは、止めたshinkaiの車。
上の写真に見える様に北の広場、かっての堀の底に、ははは、止めたshinkaiの車。

夜、照明された城の様子。

思いがけず色々な事を見て、知った、レストランを探しての道行きでしたが、はは、
これは城のレストランで聞いた、その先にあるという「レオーニ」を探す途中で見た
丘の面白い姿。
耕された土地の下の方に小さな林があり、

下の木立の中に家が見え、電線も道も、ちゃんと上から続いており、


何かお伽噺の絵本の挿絵のモチーフみたいな感じを持ったのでした。
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